夜見の桜 



深夜。

しんと静まりかえったその城の中は、しかしもう身を切るような寒さではなかった。
至るところに立つ警備兵は、解放軍の快進撃に奮い立ち、ただの見張り作業にも自然と緊張感を持っていた。
しかし、もちろん彼らも戦闘をこなせる者たちなのだが、ある一人の脱走を見逃していた。
・・・ただしそれは、その脱走者のレベルが桁違いなのであって、決して彼らの非ではないだろう。

その人物は、こっそりと城を抜け出すと、船着場にやってきた。
今夜は良く晴れていて、明るく照らし出された星たちがまるでこの地に集うものたちを祝福しているかのよう。
水面にゆらゆらと揺れる頼りなげな月は、しかし今この地を一番強く照らしている。
脱走少年は薄く口元に笑みを浮かべると、地面に直接座り込み、素足を海につける。
ちゃぷちゃぷ。
水の跳ねる小さな音だけが、広い空に上っていく。
「あーあ」
少年は足を水につけたまま、ごろりと仰向けになる。
そのまままっすぐに空を見上げると、その深い色合いに吸い込まれそうになる。
そこにたどり着けたなら、弓張りの月のゆりかごが、自分を迎えてくれるような気がする。
「空に行きたいな・・・」
ぼそりと声にしてみる。
ひどく白々しい気がした。
「・・・ルックはどう思う?」
ぐいっと顎を上げて背後を見やると、そこには思ったとおりの姿。
「・・・なんだ、気づいてたの」
「当然♪」
風の魔法使いルックは、大して面白くもなさそうに近づいてきた。
「・・・で? こんな時間に城を抜け出しておいて、何非現実的なこと言ってるのさ、ユエ」
先程の少年――ユエと同様に地面に座り(しかし足は水につけないで)、ルックは軽く眉根を寄せる。
ユエは、寝転がった体制のまま、くしゃりと表情を崩す。
「あはは、やっぱり?」
それから軽く反動をつけて、体を起こす。
「別に、意味はないよ・・・綺麗だったから、空が」

(無限に広がるそれは、穢れを知らないように見えて)

「・・・・・・・・空にあるのは闇じゃないよ」

ふ、とルックがユエのほうを見ないままに呟く。
「・・・・・・・・」
ユエは、少なからず驚いたように目を瞬かせる。
「そうだね・・・」
自分たちは、知っている。
この世界のどこにいても、自分の罪は消えない。
赤く染まった手も、呪いを抱えた身も。
心に強く根強く、痛みも。
「それに、空に行ったら本当に一人ぼっちだからね」
そこに失くした人がいるなんてのはお伽噺に過ぎない。
けど、この世界でなら。
きっと許しあえるから。
(傷の舐めあい、とも言うのかな・・・)
それは、逃げだとは思わない。
むしろ、強さになる。そう思う。

「ルック、本当はね・・・・」
何か手品の種明かしでもするような口調で、ユエは笑って見せる。
「お花見をしたかったんだ」
「・・・・・・花見?」
意外なその単語に、ルックは呆気に取られる。
なぜならここは、四方を海に囲まれた要塞。
桜の木など、あるはずもない。
確かに、この海を越えたところにある街で、桜の木を見かけたことはあるが、ここからでは見えない。
「そう、夜桜ってね、綺麗なんだよ? ルックは見たことある?」
昔を見るような瞳で、ユエは星を見ている。
「・・・・・・ないけど」
「そ? こう、一面の黒の中に、淡いピンク色がざあっと舞うんだ。以前グレッグミンスターで見てね。それからすごく好きなんだ」
そのときは、父やグレミオやテッドや。
皆でわいわい言いながら、それを眺めていたっけ。
そう言って、目を細める。
「・・・もうそろそろ、桜は満開だろうね・・・・」
「・・・・・・・・・・」
ちろり、とユエの視線がルックのほうを向く。必ず伝わるとの確信を込めた、悪戯っぽい笑み。
ルックは、すべてわかっているのだろうけど、無視を決め込んでいる。
ユエはルックの顔を覗き込んでみた。
「ルック?」
しかしルックは目を瞑ったまま、夜風に当たっているだけ、という態度を崩さない。
「ル――――ック?」
さらに顔を近づける。
「ルックってばー!!」
「・・・・・・ああ、もうっっ!!しつこいね君も!」
「お褒めに預かり光栄です♪」
いけしゃあしゃあと言ってのける「友人」にルックは盛大なため息をつく。
「どうせ、桜のある場所に連れて行けって言うんでしょ・・・」
「ご名答」
「お断りだね」
間髪いれずに返され、ユエは一気に不満の声を出し始める。
「どうしてさー・・・いいじゃないか別に!」
「君は仮にもリーダーだろ? 勝手こんな時間に連れ出したら僕が小言を食らう」
「ばれやしないよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
ルックは無言のままとうとう目を閉じてしまい、全身で拒否の意を示してしまった。もう、こうなってしまってはてこでも動かない。
完全に無視を決め込んでいる。
本当は何かあってはと心配しているのだが、そんなことはおくびにも出さない。
そしてユエは、それすらも理解している。
奇妙な友情関係もあったものである・・・・・。

しばらく、また静寂があたりを包んだ。
そして、観念したように息を吐いたのは、ユエだった。
「分かったよ、ごめんごめん。それじゃ、さすがに冷えるし、もう寝ようか」
そう言って立ち上がり、どこから部屋に戻ろうかと思案する。と。
「・・・・・・・ユエ」
ぽつり。
名を呼ぶ声に反応してユエが振り向くと。
風が、吹いた。
「・・・・・・・・・・・・桜」
それは決して多くはない量なのだけど。
ひらりひらり。
淡いピンク色が、雪のように舞う。
地面に落ちてもそれは消えることなく。

ひらりひらり。

―――美しかった。

「へえ・・・結構綺麗じゃない」
「ルック」
彼の力なのだろうか。
まさかただの風がここまで運んできはしないだろう。
この季節にしては幾分強い風が、ユエの頬を撫でた。
「――あり」
「桜って・・・・」
礼を言おうとしたのを思いっきり遮って、ルックが口を開く、
「嫌いだったよ」
「・・・どうして?」
ユエにとっては甚だ予想外の告白に、そう問い返すしか出来ない。
ルックの視線は、舞い落ちる桜の花びらに向けられている。
「すぐに散る。それなのに、その死を悼む人は誰もいない」
踊り狂う骸を見て、人は喜ぶばかり。
色鮮やかな命は美しいほどに儚く。
寂しく醜いものは、この世に執着し続ける。
「・・・・・・・・・・・・」
ユエは、やさしく目を細める。
目の前の少年が、かなしいほどに優しく、この世のものを愛しているから。
「確かにそうかもしれない。でも、桜はその瞬間も、その後でさえ、綺麗なんだ。その感動は、人々の記憶に残り続ける。そして、たとえ人がそれを忘れてしまっても、また季節が巡ったら花を咲かせる」
人の生もまた、人々に尊い記憶を刻みつける。
そのすべてを心に残していけたなら・・・。
「ねえ、永遠にこの美しい世界を見ていられるなら、僕は生きていけるかもしれない」
「・・・・・・・・・・・・そう、だね・・・」
す、とルックも立ち上がる。
先程多くの魔力を使ったのだろう、その動きは少しけだるげだ。
「確かに、綺麗だったよ・・・桜」
もう、すべての花は地に、あるいは海に沈んでしまったけれど。
きっと、その瞬間を忘れない。
それは星の光で輝いていて。すべてがうまくいくための、まじないのような気がした。
「君なら・・・本当に・・・」
「え・・・・・・・・?」
振り返ったときにはルックの姿は消えていた。
「お礼言いそびれちゃったな」
特にそれ以上気にすることもなく、ユエも自室へと引き上げる。

(君なら、本当に 運命すらも変えてしまうかもしれないね)

(僕もこの世界が美しくあるためなら・・・戦うよ)

静かな夜闇の果てに、桜の花は流れてゆく。


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