『はあ?娼館に行きたいぃ??』
『うん、連れてって』
『この前は、麻薬密売人をとっ捕まえたい、だったよな?』
『……だから?』
『お前ってさあ、何でそんなお坊ちゃんらしくないことばっかりしてるわけ?』
『そういう性格だから』
『…まあ、そうなんだろうけど。でも、やっぱりどっか無理してるだろ』

『……分からない』



 その名に、かけて 




場所は、解放軍の本拠である湖上の城、その屋上。
軍主として名を馳せるナギ・マクドールは、そこで何をするでもなく、ただ寝転んで空を見上げていた。
まだ和らいできたとはいえ、身体を包む空気は冷たい。風がひとたび吹けば、並の人間ならば身体を震わせることだろう。
しかしナギは、寒さを感じてすらいないように、ぼうっと視線をさまよわせている。その様はまるで隠者のように落ち着いているのに、何かがそれを裏切っている。
―――瞳、である。
強い意志に彩られた漆黒は、どんなときも毅然と輝く。
例えばそれが、悲しみを見据えたものであっても。

ナギはしばらく動かなかったが、やがてゆっくりと顔を一点に向ける。ほぼ同時に、風が動いた。
ふわり、と良く知る魔力が現れて霧散した。それに連れられてやってきたのは、やはり自軍の魔法兵、ルックだった。
「……飲めたの?」
ナギのほうから、どうした、と聞く暇も与えず、ルックは少し眉を寄せて言った。
ナギは軽く頷くと、隣においてあった酒瓶を取り上げて、振ってみせた。ちゃぷちゃぷ、と軽い音がする。しかし確実に残量は減っている。
「随分久しぶりだったけど。昔は、よく飲んでた」
呟いて、ナギは一息に体を起こす。
「これは、テッドが好きだったやつなんだ」
懐古を素直に顔に浮かべて。
それが出来るようになっただけで、進歩といえるのだろう。
今はどこにいるのか、無事なのかすら分からない、親友の名をそっと呟く。
「ナギ」
短く、ルックが名前を呼んだ。
ナギがそれに反応してのろりと視線を向け、
「ルック」
それを遮った。静かなのに、有無を言わせない響きだった。ルックも黙った。
ナギは、もう一度空を見上げて、ぽつぽつと独り言のような口調で続ける。
「何で、皆こんな僕をリーダーだと言うのかな?この僕の一体何を見て、そう、言うんだ?」
本気で分からない、といった響きに、ルックはしかし表情を変えない。
代わりに、思い出していた。
つい先ほど、ナギたちは大きな戦を成功させて帰還してきた。その時もナギは、自ら果敢に敵に立ち向かい、そして多くの敵を屠った。
そうして帰ってきたナギに向けられるのは、尊敬、畏敬、その他諸々も感情。そして、多岐にわたる賛辞の言葉。
『お疲れさまです、ナギ殿。素晴らしいご采配でした』
『さすがはナギ様!』
『やはり名は体を現す、ですな。このまま帝国ごと薙ぎ倒してくださりそうだ』
いささか盲信の気はあるが、彼らは真実、ナギを慕っている。
しかし、ルックは分かっている。彼の、傷を。
思われるがゆえに、余計に血を流す、複雑な心中を。
「……ナギ、ね」
ぽつり、と落ちた言葉の脈絡のなさに、ナギは不思議そうにルックを見やる。きょとんとした様は、確かに少年と呼ばれる年齢に見えた。
そしてルックは、
「似合わない名前」
ただ、そう言った。
途端に、ナギが気色ばむ。内に見える本気の怒りと、戸惑い。それが分かって、ルックは自身の考えを確信に変える。
ナギの強い視線にも、決して怯まない。
「だって、そうだろう。少なくとも、薙ぎ倒す、なんてあんたには似合わないね」
「この僕を見て、そう言うか?」
呆れたような――しかし棘のない、声。ルックはしっかりとナギを見据える。
「見かけは、そうかもしれない。アンタの気質は、軍主としての才能も、いや……あんた自身が、そう、してる」
「…………」
確信を込めた言に、ナギの瞳が真摯な色を宿す。
「でも、アンタの本質は…そう、凪、だね。揺らぐことない、穏やかな魂」
(そして、それゆえの、強さ)
ルックは、初めてナギを見たときからそう思っていた。親友や家族に囲まれ、幸せそうな彼。心に秘めた、力強さ、激しさも、いつかは大海のように凪ぐ、そんな強さを手に入れるだろうと。
それは、ルック自信が"風"であるからこそ、思ったこと。
冷静にすべてを見据えてなお、荒れ狂い続ける、感情。それを、抱くからこそ。
そこまで言って、ルックは言葉を止める。
相手の反応を待つように、じっと身じろぎ一つしない。ナギも同じように静寂に倣い。
そして、唐突に破顔した。
「っはは…。まさか、あいつ以外に、そんなことを言うやつがいるとは思わなかったな」
くしゃり、と顔をゆがめ、おかしいのだか泣きたいのだか分からないというように髪を掻き揚げる。
そしてナギは鮮明に思い出す。ずっとずっと失われることなどない、輝かしい日を。


『僕はこんな性格だから…母上の望んだような男にはなれそうもないな』
自嘲気味に放たれた言葉は、柔らかく笑う親友に、いとも容易く受け止められたのだ。
『大丈夫さ、ナギ』
笑っていた、彼は。あの時も、穏やかに。
『いつか、分かるさ』
ナギ、という名をくれた母は、物心つく前に亡くなった。そして父は、その名に与えられた字を知らぬままになった。
ナギがそれを知ったのは本当に偶然で、自分の部屋から彼女の日記が出てきたから、そしてそれを父に見せることはしなかったから、こんなにも隔たりは出来てしまった。
しかしそれを後悔はしていない。
”凪”、と。
顔も知らぬ母から与えられたその字は、不思議と心に染み込み、そしてそうありたいと願った。
しかし、成長した自分はやがて、「薙」と呼ばれた。
そんな周囲への反発もあってか、ナギは余計に貴族社会を嫌うようになり、粗略な生活を好んだ。
そしてテッドは、そんなナギに付き合ってくれた唯一の友人だった。そして彼は言ったのだ。大丈夫、と。
『大丈夫、お前の性格は、それはとても好ましいものだから。お前もいつか分かるから。穏やかな、凪のような気持ち。俺だって、そうだったんだから…』

真実の名を呼んでくれるのは、彼だけだった。
そしてそれでよかった。


……だけど本当は、気づいて欲しかったのかもしれない。
自分から言うことはなく、それでも、気づいて欲しいと。


「ありがとう、ルック」
に、と笑って、そのままの表情で言った。憑き物が落ちたように、いっそ晴れやかに。
「でも、今の僕にそれを主張するつもりはないんだ」
少なくとも今、自分に求められているのは、"薙ぎ倒す力"だ。帝国を、悪政を。
そしてこの国が平和になったのなら、もう一度、と。そう思った。
それでもやはり、一度植えついてしまった字への抵抗感は、消えないだろうけれど。
ふわ、と唐突に風が舞った。
そこで初めて、先ほどまでしばらくの間、無風だったことに気づく。
ルックは空を見なかった。ただ、ナギを見ることもなく、すこしばかり視線を逸らして。
「だったら、こうしなよ」
らしくない、と自分でも思っている。しかしルックは、そうしたいと思った。
彼の本質を表すのでも、今までの過去を表すのでもない、"今"。
解放軍の軍主として彼が掲げるのならば。
「”梛”」
宙に、指で字を書く。
それを見たナギが、目を見開くのが分かる。
「君が望むのなら、この字をあげるよ。災厄から守ってくれるという神木の名だ。その名に恥じないように、せいぜい仲間を守ってみれば?」
照れているのか、ナギのほうを見ようとしないルックの隣で、ナギは自然と押さえられない笑みが浮かんでくるのを感じていた。
それは、小さな子供が親に向けるような、無垢な喜び。無条件に嬉しいと思う、感情の表れだ。
「そっか。梛、かぁ」
何度も何度も、繰り返した。
その名を胸に刻み込むように。
「そっか……」
「別に、いやだったら捨てればいいよ」
ぼそりと不機嫌そうにルックが言えば、
「嫌だね」
間髪いれずに返すくせに、ナギはひたすら、そっか。と繰り返す。
「解放軍軍主、ナギ・マクドール」
声に出してその肩書きを認識するのは初めてだったが、それは不思議と、すとんと胸に落ち着いた。
「…やるか」
軽くなった心を感じながら、ナギは一つ伸びをした。

二人の少年を見守るのは、ただ、静かな空。
ナギは、言った。


「この魂と、名に、かけて」



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