ルックに会いに行こう。
唐突にそう思ったのは、ほんの少し春を感じさせるような風が吹いたからかもしれないし、久々に帰ってきたトランで立ち寄った商店に、あの翡翠玉の瞳を思わせる宝石を見たからかもしれなかった。
とにかく、たいした理由はないが、あの孤島で師と二人暮らしているはずのルックを訪ねてみようと思い立った。
そして彼は、善は急げ、いちいち回るな面倒くさい、の人だったから、即行動に移した。
あまり得意ではない転移魔法を使い、魔術師の島に跳んだのだった。



 湖上の約束 




ルックは、なかなかに気難しい少年だった。
それが他人に対する仮面であるとしても、やはり生来の気質でもあるのだろう。彼は一人でいることを決して厭いはしなかった。
今ならわかるが、それは「独り」が好きなわけではなく。ただ、会おうと思えば会える場所に大勢の人がいるのに、わざわざ群れなくても「独り」ではないのだ、という持論に基づくものだった。
しかし、だからこそ驚いた。
まさにこれが、青天の霹靂というやつだろう。
彼は師と二人、あの塔で暮らしているのが妙にあっていると思っていたから。

だからまさか、その島の住人が増えていようとは、思わなかったのである。




「っと、塔は……」
転移が完了したナギは、身軽に辺りを見回す。すると少しばかり離れたところに高い塔の姿が見え、自分の転移もなかなか上達したものだ、と暢気に考える。
のんびりと目的の方向へ足を踏み出しかけた、その時。
「―――――!?」
考えるより先に身体は反応していた。
咄嗟に翻した身体、それが数瞬前まであったところを、鋭い氷の刃が奔り抜けていった。
強い魔力の波動。敵意。
それを感じ取って、ナギは棍を構える。
が、
「何者ですか!」
鋭くかけられた声が、その台詞に相応しくなく幼かったので、ナギは思わず目を見開いた。
同時に視界に飛び込んできたのは、まだ10歳かそこらの少女。さらさら流れる金糸の髪に、強い光を湛えた空色の瞳が印象的だ。
その瞳の澄んだ様子は、自然と彼を連想させた。
「……ねぇ、」
一瞬で大体のことを把握したナギは、殺気を消して少女に話しかける。
しかし少女のほうは警戒心もあらわに、もう一度魔力を溜め始めた。こちらの声など聞こえていないらしい。
(聞く耳持たない、というやつだろうか)
もともと、誰何の声をかけたのはあちらのほうなのだが。
取り留めのないことを考えつつも、膨らむ少女の魔力に内心、感嘆する。
「いや、あのね、僕は…」
「誰が目的かは知りませんが、ここから先へは通しません!相手になります!」
「わっ!」
子供特有の高い声で、毅然とした口調で。とにかく有無を言わさず少女は攻撃魔法を繰り出し始めた。
それを容易く避けつつも、ナギはあまり時間をかけるとまずいと判断する。しかしこんな子供に――推測するならば、新たなレックナートの、もしくはルックの弟子だ――手荒なまねをするわけにもいかない。
「くっ…逃げないでください!」
侵入者を倒そうと必死らしい少女は、しかしやはり言い回しが幼い。
可愛い、と素直に思う。
別にやましい感情ではなく、ナギは基本的に子供好きなのである。
しかし、少女が火の上級魔法を使おうとしていることを感じ取ったときにはさすがに焦った。
まわりは密集した森だ。攻められ方によっては、逃げ場が絶たれる。
聞いてくれないこと必至だが、とりあえず叫んでみた。
「ちょっと待ってよ!僕はルックに会いに来たんだけど?!」
叫びながら、やはり少し手荒に行くべきか、と判断しかけたのだが。
少女は、きょとんと目を丸くした。
「……ルックさまに…?」
完全に意表をつかれたらしい。
同時に溢れていた敵意も消えた。
しかし、膨らみきっていた炎の力は、そこで簡単に消えてはくれなかったのだ。
「…っきゃあ!」
ごうっと風に熱が混じり、突如として炎が迸った。
「ちっ」
暴発、と口の中で毒づいて、ナギは地を蹴った。
突然集中が途切れ、膨大な魔力を支えきれなくなったのだろう。
ナギ自身、自信があったわけではない。が、咄嗟にそうしなければ、と思っていた。
炎を避け、すぐに少女のもとまでたどり着くと、炎の宿された右手をぎゅっと握りこんだ。
「だ、駄目です…っ」
少女が悲鳴に近い声を上げる。当然だ、暴走中の紋章を鷲掴みにしたりして、普通は無事でいられるはずがないからだ。しかもこれは上級の紋章、下手をしたら全身やけどではすまない。
しかし、そこはナギである。
魔力ならあまるほど持っていたし、何より同じ方法で真の紋章を鎮めるルックを間近で見てきたのだ。
それにこちらも、握った右手に宿るのは真なのだ。
「…っ大丈夫……」
少しずつ熱気は遠のいていき、やがて静寂が戻った。
はぁー、とゆっくり息を吐いて、ナギは顔を上げる。かなりの負担はきたが、とりあえず成功したようだった。
「君は、平気?」
呆然としている少女の前で手をひらひらと振って尋ねる。
と、少女は弾かれたように肩を揺らすと、思い切り、頭を下げた。
「は、はい! あの、申し訳ありませんでした!!!」
「や、謝らなくていいって。確かに不法侵入しちゃったのはこちらなんだし」
本気で気にしていなかったナギは笑ってそう答えたのだが、
「いいえ! ルックさまのお友達を殺そうとしただなんて、私が許せません! どうぞお裁きください!」
こちらも本気の目で言われてしまった。
(この場合、どうすれば……)
半ば真剣に困っていると、少女は少し顔を上げて、おずおずと言い足した。
「あの、そういえば…せっかく来ていただいたのですが、ルックさまは今、出かけていますので…」
「へ」
…。
……。
「しまった! それは考えてなかったな!」
たっぷり五秒間は沈黙した後、ナギはぽんと手を打った。あっけらかんとしたその様子に、逆に少女のほうが戸惑っている。
それを見て、ナギは悪戯っぽく笑った。
「まあ、いいのさ。特に目的があったわけでもないし。それに、この島に君みたいな子が住んでるってこともわかったしね」
「はあ…」
僅かに顔を赤くして、少女は力なく相槌を打つ。
その様子を微笑ましく見守りながら、ナギはしかし別のことを考える。
それは、先ほどこの少女が漏らした言葉だ。
(誰が目的で…、か)
小さな言い回し一つだが、それは確かに”ここに住むものが皆、何らかの理由で狙われている"ということに、なりはしないだろうか。
普通なら、「何が目的だ」と言うはずだから。

真なる門を持つ、運命の管理者。そして、故郷をハルモニアに滅ぼされたというレックナート。
彼女の弟子で、真なる風の継承者。そこに至るまでの経緯を何も語らない、ルック。
そして、目の前の、強大な魔力をもった幼い少女。

(確かに、ワケありなんだろうけど)
それならこちらだって同じことだ、とナギは思っている。だから下手な同情などしないし、ましてや詮索などもっての外だ。
だからナギは訊かなかった。彼にも、言ってくれさえすれば、どこまでも力になろうと思ってはいるのだけれど。
「そういえばさ、君の名は? 僕はナギ・マクドールだけど」
そんな彼らが住処に迎えたこの少女に、ナギは少しばかり興味を持っていた。気負いなく尋ねた。
しかし、少女から返ってきたのは、思いがけず硬質な声だった。
「お名前は伺っています。私はレックナート様の弟子です、マクドール様」
「………」
人には、決して越えさせない心の壁があるという。それをどこまで許すか、というのが信頼の度合いだと、誰かが言っていた。
そして。
「名前を教えてはくれないのかな?」
困ったように笑うと、少女も申し訳なさそうな顔をした。
「あなたが良いお方だというのは分かっています。ですが、これは大切なものなのです」
きゅ、と胸の前に両手を置いて、大切に何かを包むような仕草をする。
「何もなかった私に、あの方が初めて与えてくださったものなのです。名、は、はじまりなのです。世界に生まれ、私が始まる証―――」
「はじまり、か」
不意に、もう何年も前になる光景が脳裏に浮かぶ。

ナギ、と。
正しくその名を呼んでくれたのは。
遠い、むかし。そして、

”はじまり、だよ”


「―――――そっか」
わかった、とナギは言った。
少女が顔を上げると、柔らかく微笑む漆黒の瞳と目が合った。
青いあおい、懐かしい色。
彼女は水だな、と思う。透明で、静かで、そして、強い。
ナギはポンと少女の頭に手を載せ、軽く撫でてやる。
「ねえ、ルックを見ていてやってよ」
「?」
精一杯に見上げてくる、幼い小さな少女。
しかし彼女を、ルックが選んだというのなら。今はたとえ無意識だとしても、彼が"名"を与えたというのなら。
それは彼にとっても、一種の始まりなのだろうから。
「あいつは、名前を大切にしてる。それは僕も知ってる。僕の名を本当の意味で呼んでくれた、二人目のひとだ」
だから、と。せつなげな色を滲ませて。
「あいつが幸せにいてくれればいいとおもう。あいつ自身がそれを望まなくても」
「私も、そう思います」
少女のはっきりした答えに、ナギは満足そうに頷く。
「そばにいてあげて。あいつの手は冷たいから」

こくりと頷く少女にふわりと笑い、ナギは腕を伸ばして背伸びをする。
「うーん、これはレックナート様に挨拶していくべきかな? でもルックがいないなら塔を訪ねる理由もないし…また来るよ。レックナート様にはお邪魔しましたとでも言っといて。あ、そうだ」
そこまで言って、ナギはしゃがみこむ。手ごろな枝を手に取り、地面に一つの文字を書く。
教養のある階級の人しか心得ていない種類の文字だ。
「梛、ですか」
それなのに正確に「ナギ」と読んだことに少し驚いて、ナギは目を見張る。
「頭がいいんだね」
「あの塔にはたくさん書物がありますから」
少し照れくさそうに笑って、セラは言った。
「あなたの、字ですか?」
この種の字があるのなら、それは姓があるということよりも、もっと特別なことだと知っているのだ。
身分が高ければつくというわけではなく、ただ、人から人へ、愛情を込めてつけるのだ。通常、母から子へ。
もちろん教養がなければつけられないのだが。
しかしナギは、軽く首を振った。
「本当は違う。だけど、これも大切な字だよ。ルックがくれたんだ」
「……!」
今度はセラが目を見張る番だった。
秘密だよ、とナギは唇に指を当ててみせる。
「誰にも教えたことなんかないけどね。君にはひとつお願い事をしたから、その代わりに」
そこまで言ってもう一度立ち上がると、今度こそ転移のための魔力を解放する。適当に目標の座標を設定しつつ、
「今度はルックがいるときにこれるようにするよ」
じゃあね、と言いかけて、呼び止められる。
「セラ、です」
「……」
先ほどまで、この少女は年齢に似合わない口調を続けていて、それが素のようだった。同じように、笑顔もどことなく、遠慮がちなものであったのだけれど。
ナギは知らず、笑みを返す。
無邪気に笑った少女は、太陽に輝く海のように、きらきらしていた。真昼の海だった。
「またいつでもいらしてください。お待ちしていますね、ナギさま」
「ああ、またな、セラ」

そうして別れた。
名を交わし、そして再会の約束をして。
それがお互いにどれだけ大切なことか、二人とも理解していた。初対面だったにもかかわらず、二人はどこか似ている、と感じ取っていた。
そしてそれは、美しい風の少年も、また、太陽の象徴たる少年も、同じだった。
だからこそ彼らは集い、そしてともに歩むことになる。それが有限のときであろうと。


決して重ならない、しかし良く似た、痛みとほんの少しの寂しさを。
つないだ手のぬくもりで覆い隠して。








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